邪神の贈り物(グイド・カラブレイジ): デジタルのメリットとリスクについて

今年から河北町のDX推進アドバイザーの委嘱をうけ、個人でできるところから、まちづくりの議論のためのオンライン(デジタル)環境の構築を進めています。

こうしたプラットフォームへの町民の参加を促すなかで、デジタルに不慣れな人から「セキュリティなどの危険性はないのですか」との質問をされることがよくあります。

石垣は、一般社団法人MyDataJapanの理事・事務局長という立場と経験から、パーソナルデータの漏洩問題やフェイクニュースの問題、SNS詐欺の被害者になる危険性など、デジタル活用にともなうリスクは良く承知しています。また、こうした問題が、テクノロジーや法制度、事業者の運用だけで解決することが難しいことも良く承知しています。ですので、「最新のテクノロジーを使い、きちんと運用しますから絶対に大丈夫です。危険性はありません」などとは口が裂けても言えず、どう説明するか応答に窮することが増えてきました。

こうしたなかで、なにかの書籍かネット記事で読んだ、「邪神の贈り物」という例えを引用するようになりました。

邪神の贈り物(The Gift of Evil Deity)というのは、アメリカの著名な法経済学者グイド・カラブレイジ(Guido Calabresi)が、彼の著作『Ideals, Beliefs, Attitudes, and the Law: Private Law Perspectives on a Public Law Problem』のなかで紹介された、法学部の学生に向けた仮想の問い、とのことです。(ながらく出展が分からなかったのですが、今年になって読んだ「データセキリティ法の迷走」(ダニエル・J・ソロブ、ウッドロウ・ハーツオグ著、小向太郎監訳)に出展が紹介されていました。)

カラブレイジは学生に向かって、以下のような問いを発します。

「ある邪悪な神が現れ、生活をより快適にする贈り物を提供すると申し出ます。ただし、その代償として、毎年ランダムに選ばれた1,000人の若者が悲惨な死を遂げることになります。あなたはこの提案を受け入れますか? あなたが大統領や法制度の責任者になったと仮定して考えてください。」

というものです。

多くの学生は、(たぶん私もそうですが)、直感的にこの提案を「拒否」すると思います。

これに対して、カラブレイジはさらに問いかけます。

「その贈り物は自動車と何が違うのですか。自動車で、毎年何万人も人が死んでいるのですよ。」

わたしの住んでいる田舎町では、80歳以上の高齢者が車を運転することは当たり前です。当然のことながら、高齢ドライバーによる事故やトラブルは日常茶飯事です。それでも彼らは(時に離れて住む)家族の反対を受けながらでも車を乗り続けます。都市部と異なり、田舎町では歩いていける商店/病院がない/バスなどの公共交通手段がないなど、車がないとまともに生活できないようにここ数十年で町が変わってしまっているためです。

一方でデジタルはどうでしょう。デジタルは、車と同じように、それまでは全く考えられもしなかった利便性や可能性を与えてくれます。デジタルを使うことによって、人は場所と時間の制約から解放され、多くの人とつながり協働することができるようになりました。放送局や新聞などを持たなくても世界中に自分の考えや表現を伝えることができるようにもなりました。人では絶対にできなかった大量のデータ処理も可能ですし、生成AIの登場によって量だけでなく質的にも人間ができることが拡大しているようにも思えます。一方で、デジタルによる様々なリスクが顕在化しています。データ漏洩によるプライバシー被害もそうですし、SNS詐欺の増大、フェイクニュースやフィルターバブルなどによる市民対立の激化、選挙への活用(例:ケンブリッジアナリティカ事件)や政府当局による国民の洗脳(強権国家)など、民主主義との危機とも言われる状況も生じています。(このあたりの問題は例えばこのプレゼン資料を参照ください)

現在のデジタルでは、自動車事故のような直接的な「死」につながることは稀かもしれませんが、自動運転車の普及や医療用AIの登場など、そういう問題が発生するのも近いかもしれません。もちろん、こうした弊害(リスク)を予防するために、様々な技術的対策や法制度の整備なども進められていますが、自動車等にくらべてまだ十分とは言えないという気がしています。

まさに、デジタルは「邪神の贈り物」というのにふさわしいと思います。

今はデジタルがなくても高齢者が生活するのにあまり問題はありません。ですので、高齢者はデジタルは避ける/使わない、という選択が可能です。とはいえ、私の住む田舎町でも、離れて暮らす家族や友人とつながるため、スマホとLINEを使う高齢者は激増しています。また、少子高齢化と若者層の人口流出に伴う人口減少は私の住む田舎町でも最大級に深刻であり、いままでの町のやり方(多くがアナログです)では早晩立ち行かなくなることは明白だと感じています。このため、デジタルのリスク面を認識しながらでも、デジタル化は推進していくしかない、と思っています。

デジタルのリスク対策には、前述した「データセキュリティ法の迷走」でも主張されていますが、テクノロジーや法制度の整備、事業者内の運営ガバナンスだけでは困難で、最大の脆弱性である人間の要素も組み込んだ、総括的(ホリスティック)なアプローチが必要です。参考までに、この本では、データセキュリティは(感染症はかならず起こるという前提で)「公衆衛生」の総括的アプローチを学ぶべきと主張しています。

私は、デジタルリスクへの対応は、自動車のリスクへの対応を参考にするべきだと思っています。

自動車の発明以来、人々はその圧倒的な利便性に飛びつき、やがて大量生産技術が登場するなかで、爆発的に普及したと思います。そして、それと同時に、各地で悲惨な事故が起こり、車に乗らない歩行者も含め、多くの人命が失われてきました。こうした事故を無くすために、ブレーキ、ハンドル、ライト、エアークッションなど様々な技術革新が進み、法制度も整備され、高速道路や信号機に代表される社会インフラも整備されてきました。近い将来には自動運転技術の搭載も進み、人間が運転するよりはるかに事故を起こす危険性が低下するとも予想されますが、絶対になくなるわけではありません。自動運転技術の核心であるデジタルのトラブルや外部からのハッキングなども予想され、自動運転車による悲惨な事故も絶対になくならないと思います。

こうした問題があっても、自動車はなくならないと思います。(「どこでもドア」が発明されたらなくなるかもしれませんが)個人の嗜好の問題もありますが、自動車があることを前提に社会システムが成立しているからです。個人で自動車にのらないことは自由ですが、社会から自動車をなくすことはできません。こうした問題に対応するため、社会は自動車のリスクに対して技術革新に加えて「総括的なアプローチ」を行ってきたと思います。

一つは人間側のリテラシーや運転技術を高める「運転免許制度」ですし、万一の事故が起こったときの「自動車保険制度」、車の安全性を保障する「車検制度」などがあげられます。幼稚園児や小学生の段階での「交通安全教育」、高齢者のリスクを低減するための「クローバーマーク」や「(夜間歩行者用の)反射シールの配布」などもリスクを低減するための重要な社会的取り組みだと思います。

残念ながらデジタルには、自動車のような「免許制度」はありませんし、「保険制度」もほとんど整備されていません。デジタルに関する児童・生徒の教育は、近年、重視されるようになってきましたが、まだまだ十分とは言えません。シニア層に対する教育は、一部の自治体でスマホ教室やパソコン教室のような取り組みはありますが、今は「どう使うか」が中心で、そのリスクの理解や対処法に関しては、未整備だと思います。

私は、神様でも、大統領でもないので、こうした問題に対してできることは僅かですが、シニア層や幼児・児童の保護者のリテラシーを高めるということを当面の取組みとして、できることをやっていきたいと考えています。

(2024/12/27)